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新・歴史の真実 | WILD BLUE
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新・歴史の真実 20:09
新 歴史の真実―祖国ニッポンに、誇りと愛情を

新 歴史の真実―祖国ニッポンに、誇りと愛情を

前野 徹



圭一さんが持って来て、ベンジー含めJUDEの面々オススメな1冊。非常に眠気を誘います。大事な話なので最後までよ〜く読む様に。寝るなよ(笑)。



プロローグ 歴史の真相、真実から目をそらすな



亡国は何も経済の衰退によってもたらされるものではない。その国が継承してきた精神が融解し、滅する。これが国の滅亡です。

歴史に対する無知と無関心---靖国神社を巡る国内での論争や参拝への近隣諸国の内政干渉が繰り返されるたびに、この言葉が浮かぶ。

政府要人が靖国参拝に行った時に必ず出て来るのが、「A級戦犯」を祀る社に国を代表する者が参拝するのはけしからんと言う非難。日本の知識人、マスコミ、政治家までもがごく当然の様に「戦犯」と言う単語を使う。これは歴史に対する無知、戦没者に対する冒涜以外の何ものでもない。少なくとも、我が日本国内では「戦犯」などひとりも存在しないのだ。

「戦犯」は言うまでも無く戦争犯罪人。では、日本の当時の指導者達にA級戦犯と言うレッテルを貼ったのは誰か。連合国による極東軍事裁判(通称、東京裁判)である。裁判と名が付いているものの、全くでたらめの戦勝国による復讐劇であった。だが、当時はGHQ(連合国総司令部)の占領下、裁判の批判に異議を申し立てる事は勿論、批判も禁じられており、A級戦犯とされた28人の内7人は汚名を着せられたまま絞首台の露と消え、16人が終身禁錮刑、あとの2人も禁錮20年と7年の刑に処せられた。

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立国に復帰する。英霊の汚辱を晴らせとの声は与野党を問わず国会でも湧き起こり、1953年8月3日の衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致をもって採択された。その結果、旧敵国の一方的な東京裁判によって有罪判決を受けたすべての人々は、日本の国内法では犯罪者とみなさないと言う基準が明確に打ち出された。そしてA級戦犯とされた人々は1956年3月31日までに、B、C級戦犯とされた人々は1958年5月30日をもって釈放された。

同時に1953年には恩給法、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下、援護法)、未帰還者留守家族援護法の三法が審議され、戦争裁判受刑者遺族に対する援護措置が講じられた。

援護法や恩給法では、犯罪者は対象にならない。つまり国が戦犯など存在しないと認めた訳で、事実、戦犯とされた方にも選挙権が与えられていた。東条英機以下の所謂A級戦犯をはじめ、戦争裁判で刑死、獄死した者も法律上は「法務死」、すなわち公務による死亡として扱われている。

戦犯など国内的にいない。つい50数年前に国民の総意で決定された事項なのに、未だ戦犯の汚名を着せ続け、先人の尊い魂を貶めるマスコミ、知識人とする人達。その間違いを誰も指摘しないばかりか、多くの政治家も国民も何の疑問も無く「戦犯」と言う言葉を使っているこの国は、異常としか言いようがない。

近隣諸国の圧力に屈し、いま国立追悼慰霊施設の建設が進められようとしている。つい先頃も小泉純一郎首相は、慰霊施設の建設を前向きに検討すると発表した。

これまでも近隣諸国の靖国神社とは別の宗教色の無い慰霊施設の建設や、「A級戦犯の分祀を」との案は、政府要人の靖国参拝が近隣諸国から激しい抗議を受けるたびに上がっていたが、これまで具体化した事は無かった。ところが、一昨年、小泉首相が終戦記念日参拝の公約を破り、2日前倒しして参拝した事に、中韓から非難が集中、参拝直後の首相談話で近隣諸国に対する政治的配慮から、「内外の人々がわだかまりなく(戦没者に)追悼の誠を捧げるには、どのようにするか議論する必要がある」と述べ、国立追悼慰霊施設の建設が一気に浮上する。

8月の首相談話を受けて、2001年12月、福田康夫官房長官の私的諮問機関として「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(追悼懇)」を設置。追悼懇による最終答申が約1年かけて出され、代替施設の設置が今、具体化している。

靖国に眠るのは、大東亜戦争(太平洋戦争)の戦没者だけでなく、維新の志士を育てた吉田松陰、近代日本の礎となった坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、橋本左内など国事に尽くし倒れた志士達も祀られている。加えて獄中で倒れた志士の妻、従軍看護婦、沖縄で戦没したひめゆり部隊など57000余柱の女性の御祭神。この国をつくり、護った総数2406000余柱の御祭神が眠っている。

靖国は日本の歴史が凝縮された日本人の魂の故郷である。それをなおざりにし、葬り去ろうとしている。先人が血と涙と汗で築いてきた歴史、日本の精神まで破壊しようとしている。



      日米の真の信頼関係、友好関係を築くために



日本が生き残る為には、どの国とも友好関係を強固にしつつ、独自の道を切り拓いて行かなければならない。

特に日米同盟は重要な基軸である。無法テロ国家、北朝鮮から日本を守る為には、アメリカとの密な連携が日本存亡のキーポイントとしていっそう浮かび上がる。その為にも、アメリカに対する深い理解が必要である。歴史に刻まれている欧米のパラダイムを理解し、それを前提として絆を深めて行かなければならない。

日本の近代史を振り返ると、明治の人々は概ね親米派だった。それが反米へと傾いたのは、米国での日本人移民排斥が顕著になってからである。当時、日本人はアメリカの本質を見ようとせず、ただ憧れ、過度な期待を託していた。それ故アメリカの排日的な動きに裏切られたと言う思いが強く、一気に反米感情が高まった。

戦後このかた58年間の日本の歴史は、盲米、盲従の歴史。アメリカの権威を笠に着て、官僚政治家や官僚をはじめとする指導者は悪乗り便乗し、個人の権益に走るだけで、アメリカの占領政策による呪縛を解こうとせずに来た。このエゴイズムと「なあなあ主義」が現在の日本の危機的状況を生み出している。

日露戦争から大東亜戦争に至る道のりを見ても、戦後の日本を眺めても、アメリカへの理解が足らなかった。ただ憧れ、盲従し、依存する。相手を知ろうともせず、一方的に期待し、利益を求めた結果、堕落への道を歩んだ。アメリカを真に理解し、自立、独立しなければ戦後の呪縛からも脱却出来ないし、日米の真の友好関係、信頼関係も構築出来ない。

盲米は決して親米ではない。アメリカの顔を真正面から見つめ、その上で対等なお付き合いをする。これが本当の親米である。歴史の真相、真実から目をそらす事無く検証し総括して、良い事は良い、悪い事は悪いと堂々と主張しながら、固い絆を育む。これが戦後の日本に最も欠けている点。相互理解こそが、真の信頼関係、友好関係の土台である。日本が自立し、世界の国々と本当の意味で対等で深い友好関係を築き、国際社会に貢献する為にも、私達日本人は、今一度歴史の真実と真摯に向かい合わなくてはならない。



第一章 戦後歴史の総括

 

 恐るべき謝罪国家に転落



戦後、半世紀を過ぎ2005年には60年を迎える。この間日本人が築いたのは、世界でも比類なき恐るべき無惨な謝罪国家、贖罪国家、国益なき国だった。

首相が靖国神社に参拝すると、中韓両国から非難の声が上がり謝罪する。教科書の記述に中韓の抗議があるとまた謝罪。政治家が大東亜戦争に関して語ると「侵略戦争に対する反省が足りない」と近隣諸国から責められ、頭を下げる。戦後の日本と近隣諸国の関係史は謝罪の歴史と言っても過言では無い。

日本人はいつの頃からか先の戦争に対して詫びるのは当然だと思うようになった。しかし、安易な謝罪がどんな結果をもたらすか。

国際社会では国家が他国に謝罪するなどと言う事は、常識外の愚行である。侵略、搾取、略奪をほしいままにし、有色人種を奴隷として売買し、酷使した白人諸国ですら「反省」や謝罪はしない。

中韓は事あるごとに日本に謝罪を求める。しかし、韓国が過去に侵略された中国に対して謝罪を求めた事もなければ、中国がイギリスに謝罪を求めた事も無い。なのに、日本には度々「謝罪せよ」と迫るのは、日本政府が安易に謝罪に応じるからだ。

何故、どこの国も謝罪しないのか。日本では謝罪は美徳で、謝れば全て水に流され、わだかまりは解消する。ところが、国際社会では全く違う。謝れば、例え悪く無くとも賠償義務が生じる。どこの国も謝罪を要求されても突っぱねる。同じ第二次世界大戦敗戦国であるドイツは、事あるごとに国をあげて謝っているではないかと思われるが、ドイツの謝罪の対象は国家の戦争責任では無い。ドイツ政府は、戦時中のユダヤ人大量虐殺もその他の悪徳行為も全てヒトラーのナチス政権の仕業だとし、戦争悪は全部ナチスのせいにして政府は一切謝って無いのだ。

対して日本は戦後、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアに計4780億円を賠償し、1965年、日韓条約を締結した韓国に対しては国交を回復するにあたって当時の韓国の国家予算を上回る巨額の賠償金を支払った。

事実関係を考えもせず、すぐに謝る日本ほど攻めやすい相手は居ない。戦後賠償を要求しているのは近隣諸国だけでは無い。欧米でも謝罪国家、日本にターゲットを絞り、金を巻き上げようと、戦後補償の訴訟が年々活発になっている。国内では不況のどん底で自殺者が急増していると言うのに、金を貢がされ続け、子々孫々まで断罪され、金をむしり取られている。これが謝罪国家日本の哀れな姿。まるで世界の奴隷である。このままでは、日本は贖罪亡国へまっしぐらである。

 

 誰が日本を贖罪国家に追い込んだのか



日本が贖罪国家に転落する決定的な契機を作ったのは鈴木善幸内閣だった。1982年の「教科書誤報事件」に端を発している。同年6月25日、高校の教科書に関する検定結果が発表された。この時、文部省記者クラブの記者が検定申請時に、中国華北地方に対する「侵略」の記述を文部省が「進出」と書き換えたと勘違いし、これが新聞で報じられて、中国との外交問題に発展し、そのあおりを受け、9月に予定されていた鈴木善幸首相の訪中が取りやめの危機に瀕した。誤報なのだから、その旨中国側に伝えれば終わるはずだが、宮沢喜一官房長官は、それを知りながら中国の内政干渉に屈して「政府の責任において修正します」と謝罪してしまったのだ。事実関係を調べもせず、謝罪する。この風潮を作った宮沢喜一氏の罪は誠に重い。

種を撒いたのが宮沢喜一氏なら、苗を育てたのが細川内閣である。1993年8月10日、就任したばかりの細川護熙首相は記者会見に臨み、新聞記者の半ば誘導的な質問に答えて「先の大戦は侵略戦争であった。あの戦争は間違った戦争であったと認識している」と言明した。その後、国会での所信表明演説でも、「我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらした」と表明した。日本の首相が公式の場で「日本は侵略国家」と断定したのはこれが初めてだった。

何故、近隣諸国や欧米から先の戦争は侵略戦争だと決め付けられても、代々の首相が認めて来なかったのか。細川首相はその意味さえ分かっていなかった。

侵略の定義は実ははっきりしたものが無い。悲惨な第一次世界大戦を経験して、二度とあのような世界大戦を引き起こさない為に戦争に関する国際法を作ろうとの趣旨で、1928年、パリで平和会議が開かれ、日本を含む15ヶ国が参加し、「不戦条約」に調印した。会議で決まったのは、要約すれば「自衛の為の戦争は認めるが、”アグレッシブ”な戦争は今後禁止しなくてはならない」である。つまり、相手が攻撃して来ないのに、攻めるのは禁止と言う訳である。

では、誰が進攻戦争か自衛戦争かを判定するのかと言う議論になった。アメリカのケロッグ国務長官は出席国に対して「自衛か否かを決定するのはその国の裁量権に任せる」と言う提案をした。すなわち、その国が侵略戦争と言えば侵略戦争、「追い詰められてやむなく戦端を開いた。自衛戦争だ」と言えば自衛戦争なのだ。故に侵略が明々白々でも、どこの国も侵略を認めない。

ところが、日本では一国の最高責任者である細川首相が大東亜戦争を侵略戦争だと安易に認めた。大東亜戦争は自衛の為の戦争だったが、この瞬間に、国際的には紛れも無く侵略戦争になってしまった。日本が自ら侵略戦争だと認めたのだから、これはおおっぴらに非難出来る。謝罪も賠償もいくらでも要求出来るのだ。謝罪と賠償は表裏一体の関係だ。途端に近隣諸国は勿論、欧米からも過去の戦争に関して「詫びろ。金をよこせ」と言う声が吹き出した。そして日本は無惨な贖罪賠償国家に転落して行ったのだ。

その間、日本は細川発言を取り消すどころか、更に上塗りして行く。細川政権の次の羽田孜政権に至っては、「我が国の軍事行動は、近隣諸国を侵略して耐え難い苦痛と悲しみを与えたばかりでなく、我が国民に多大な犠牲をもたらした」と述べる。日本国民への戦争被害さえも自国が招いた原因によるものであり、責任は過去の日本にあると言うのだ。これでは祖国防衛の為に尊い命を犠牲にした英霊達に対する冒涜では無いか。

後は坂道を転げる様に自虐史観が膨張して行った。1995年、終戦50周年を機に、日本の戦争責任を認め、関係諸国に対する「反省」と「謝罪」を表明する「戦後五十年国会決議」を採択。

小渕恵三政権、森喜朗政権は謝罪路線を修正しようとしたが、小泉純一郎政権の誕生で元の木阿弥。今では首相が過去の戦争を反省し、謝罪するのは慣例の様になってしまった。与野党を問わず、もはや多くの政治家が「日本は侵略国家である」と疑いもしていないと言う恐るべき現状が生まれている。戦後半世紀余りの内に、歴史の真実は歪曲され、日本の指導者層にもすっかり自虐史観が巣くってしまった。日本は何と空恐ろしい愚かな国家になったのだろうか。



 竹島問題が象徴する指導者達の無責任、無関心、無恥、その場限り



『戦後歴史の真実』を上梓して東京裁判の欺瞞性を指摘、戦後の日本人の精神に東京裁判史観が暗い影を投げかけていると論じた所、東京裁判が行われてからたった50数年しか経っていないのに、もはや多くの人々がその事実にも目を向けようとしていないと知って愕然とした。今日本の指導者層を形成しているのは東京裁判が開廷されていた頃、まだ生を受けていなかった戦後生まれか、あるいは幼かった60代だ。それにしても親の代に起こった歴史の真実にさえ無関心とは。今や無責任、無恥、無表情が日本中を覆っている。指導者も一般大衆も捏造された歴史を真の歴史と信じて疑わないのだから、国家が危うくなっても当然である。

竹島問題が象徴的である。日本海の島根県沖に浮かぶ小さな島が竹島。しかし、竹島にはもうひとつの名がある。独島と言う韓国名が。

竹島が国際法で日本の領土と認められたのは1905年。以後、島根県五箇村となり、半世紀は何事も無く、この孤島は国際社会でも日本領の一部として扱われて来た。ところが1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が朝鮮半島の独立を認め、一切の半島での権利を放棄した途端である。独立した韓国政府が突然、竹島の領有権を宣言した。この韓国の暴挙に54年、日本政府は国際司法裁判所に調停を提議した。国家主権が踏みにじられ領土が侵略されようとしている。しかし韓国は調停を拒否、事実上の実効支配に乗り出した。

その後、韓国は竹島への上陸を度々繰り返し、接岸施設の建設を開始、有人灯台、警備隊の常駐、宿舎・ヘリポートなどを完成させている。その上、自然保護地域に指定、竹島とその周辺海域を国立公園に指定する方向、竹島に固有の郵便番号を割り振りするなど、完全に韓国内と同じ扱いにした訳で、本来なら決定的な領土侵犯である。

だがこの間、日本政府は指をくわえて眺めているだけで、形式的に抗議したのみ。国際司法裁判所や国連に提議すると言う国際社会への働きかけも全く行っていない。自国の領土がかすめ取られようと言う国家の重大危機なのに、国会でも真剣に討議されていない。

韓国の干渉まがいの非難には「日本の領土を侵略している韓国が日本の教科書の記述や首相の靖国神社参拝に異議を申し立てる資格は無い。土足で踏み込んだ日本の領土から撤退するのが先だ」と毅然とした態度で抗議すべきだが、竹島問題に関しては見て見ぬふりをする。逆に先の戦争には謝罪を繰り返す有様である。

かたや韓国は対照的。独島と言えば、誰もが知る重大な国民的関心事である。日本が少しでも竹島の領有権に触れると、それこそ国をあげて猛烈な抗議が始まる。

日本ではこの事実すら大方の人々は知らない。余計な波風を立てたくないと政府も何一つ対応策を講じようとしないし、マスコミも報じないからだ。取るに足りない竹島によって韓国との外交関係が崩れるのはまずいとの考えなのだろうが、領土問題は国家の最優先事項である。放置しておくとどんどん領土は侵食され、日本の国そのものの存続が危うくなる。

領土問題ひとつ取っても、戦後、58年、日本の指導者層に浸透した無関心、無定見、無恥、その場限りの現実主義が、恐るべき深さで根を張っている。政治家の最大の役割は、この美しい日本を子々孫々に受け継ぐと言う使命だ。それさえ果たそうとしない。



 無日日本人、反日日本人が日本全体のガン細胞に



一般大衆の範たる指導者層がこの体たらくである。愚かな指導者の下では立派な日本人など生まれない。戦後58年間に自虐史観に基づく教育により次々と日本を否定する戦後生まれが大量生産され、今やあらゆる層に自虐が浸透している。

自国を軽蔑し、日本人としての誇りを持たない人間はどうなるのか。それが顕著にあらわれているのが現在、大きな問題となっている日本人の精神の荒廃である。親殺し、子殺し、幼児虐待、無差別殺人、故無き通り魔殺人等々、一昔前なら考えられなかった鬼畜さながらの犯罪が連日新聞を賑わしている。

社会に適応出来ない若者や子供達も急増中で、判明しているだけで引き篭もり約100万人、不登校児22万人。引き篭もり年齢の上限は年々上がり、今では平均年齢は20代半ばに達する。本来なら社会を支えるべき大人が、社会に馴染めず家に閉じ篭る。モラルも堕ちたものである。企業は不当な利益を得ようと不正を働く。日本列島は欲望主義、拝金主義、場当たり主義、自己保身、エゴイズムにすっぽりと覆われている。

これらの元凶は全て戦後育まれた自虐史観にある。自虐史観の刷り込みに一役買った日教組によって、過去の日本を否定する反日世代が生まれた。彼等が長じて興ったのが30数年前の学生運動である。当時、この世代の親達は戦前、戦中を生きてきた世代。学校では反日教育が行われていても、家庭にはまだ良識が残っていた。だからこそ親の世代の価値観を打ち破ろうとする事で、全共闘世代は反日と言う歪んではいたがある種のアイデンティティーを持った。

しかしやがて全共闘世代が親になると、学校でも家庭でも反日教育、自虐教育一色である。反日、自虐は自分達の存在そのものの否定である。人間は自分の存在を否定しては生きていけないので、国家や歴史から目を逸らそうとする。その結果、日本の国、政治には無関心で国家自体がすっぽりと抜け落ちた異常な日本人が誕生した。こうした日本人を「無日日本人」と名付けた。無日と日本人の違いは「歴史や伝統文化を尊重するかどうか」である。人は民族の歴史、伝統文化の中でアイデンティティーを見出す。無日日本人は、時の流れを貫く国家や歴史、文化が無いので自分が何者であるか、アイデンティティーが見出せない。生きる目的も思い浮かばない。

自然、欲望に流され、本能的に生きる様になる。刹那的な生き方では責任感も育たない。「自分さえ良ければ」と言うエゴイズムで生きれば他者への思いやりも無くなる。どうしてこんな国に生まれたのだと怨み、自己否定するから親や祖先への尊敬の念も生まれないし、子供への愛情も薄い。親殺し、子殺しが増えて当然である。

さもなくば社会をシャットアウトして殻に閉じこもろうとする。かくして公徳心のかけらもない人間、無表情で不気味な若者、欲望まみれの大人が溢れている。



 自己決断力を失った国家は滅びる



加えて戦後、日本人は戦勝国家の言いなりになり、経済も防衛もアメリカに依存し、対米追随、隷属でアメリカの顔色を絶えずうかがってきた。その結果、自らの頭で考える事を止め、他者に依存する習性が身に付いてしまった。決断はアメリカ任せで、近隣諸国の動向にすぐに左右される。歴史をなおざりにしてきたので、主張すべき事も主張出来ない。「幼稚とは知識や教養が無い事では無く、肝心な事が分からない事である」(評論家:福田和也)。この表現を借りれば、現在の日本を支配しているのは幼稚な発育不全の指導者達である。

肝心な事が分からないので決断しない。全てを先送りにする。決断が必要な局面になっても他者に依存し、自分では決断を下そうとしない。その結果、最悪の事態が訪れても自分のせいだと思わず、責任は他人になすりつける。

政治の世界でも先送り、責任回避は日常茶飯事である。小泉首相はこの2年間、殆ど何もやらず、「改革なくして景気回復なし」と馬鹿の一つ覚えの様に連呼して来た。問題が起きれば全て先送りで、決断を下そうとしない。

熱心なのは国民に対する人気取りである。細川首相も大衆迎合のポピュリズム政治家だったが、小泉首相も大衆迎合型政治家。大衆が正しいとは限らない。政治家には、たとえ国家が反対しても信念を持って決断し、行動しなければならない事がある。その上で十分に説明すれば国民も理解してくれるはずだ。良い例が危機的状況にあったフランスを救ったドゴール大統領。ドゴールは時には世論を敵に回してでも方針を貫き、フランスを再建した。

ところが小泉首相は説明責任も果たさない。信念が無い政治家なので、説明も満足に出来ない。ポピュリズムに流される政治ほど恐ろしいものは無い。

世論を喚起するマスコミも今やポピュリズムに染まっている。売らんが為に耳障りの良い人権、平和、社会福祉、環境を言い立てるだけで、肝心な問題には触れようともしない。世論に迎合するジャーナリズムが幼稚な世論を育て、またそれにジャーナリズムが迎合すると言う愚かな連鎖が出来上がっている。

どちらを見ても迎合、責任転嫁、不正・・・日本は芯が全く無いクラゲの様な愚かな国家に成り果てた。

高名な歴史学者、アーノルド・トゥインビーが言っている。「どのような国も繁栄し、衰退するが、自己決定的能力を失った国家は滅びる」。

戦後、植え付けられた小さなガン細胞が今や肥大化し、日本の国全体を蝕むまでに育った。これが昨今の日本に漂う閉塞感の正体である。未曾有の経済不況に今、日本は喘いでいる。経済の立て直しは急務だが、事はそれだけでは収まらない。「精神の構造改革」を成し遂げなければ、真の日本の再生はあり得ない。戦後、日本人は一度たりとも現代史、とりわけ大東亜戦争を中心とする戦前、戦中、戦後の歴史を正しく総括して来なかった。歴史に真正面から向き合う事無く、戦後、新しい日本がポッと誕生したかのような錯覚を抱いている。しかし、歴史を断絶させたまま、いくら国造りを進めても土性骨の座った日本人も生まれなければ、土台がしっかりした国家も建設出来ない。やがて根腐れして衰退へと向かう。今の日本は亡国の際まで追い込まれている。溜まりに溜まった戦後の膿が、皮を破って一気に吹き出して来た。それが今の日本なのだ。

病原菌を除去しなければならない。したがって、小手先の構造改革では日本の敗戦病はいかんともしがたい。この危機的状況から脱するには、戦後歴史の総括と言う大手術を経なければならない。戦後、戦勝国から押し付けられた色眼鏡の歴史観ではなく、永続する日本の歴史の延長線上で。イギリスのチャーチル元首相が述べている。「過去を正しく分析しなければ、現在の出来事を正しく見る事は出来ない」。



 マッカーサー憲法、教育基本法を後生大事に守り国の基軸を失う



世界の非常識国家日本は憲法ひとつを取っても明白である。憲法は、国民が幸せになる為にどのような国をつくるのか、と言う国家経営の見取り図。ところが、戦後、この最も基本的で最も大切な憲法さえ持たずに国造りを行った。

現行の日本国憲法は占領軍によって一週間で書き上げられた草案を下敷きにした”マッカーサー憲法”で、日本が自主的に制定した憲法ではないからだ。

マイク・マンスフィールド元駐日米大使がこう綴っている。「戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は、マッカーサーの直接の指示を受けてGHQ民政局のチャールズ・ケーディス次長を中心に作った条項でどこからどうみても米国製だ。日本に戦争を放棄させ、安全保障を米国頼みにさせたのは米国である」。

ある国を侵略する場合、まず武力で制圧し、その後、法を作り変えて長期にわたって支配するのが常道である。日本国憲法もこの意図を持って作られた。平和憲法と言えば聞こえは良いが、これは日本を植民地扱いしようと言う露骨な意志の表れだ。アメリカは憲法第9条で戦争放棄を盛り込み、これを盾にサンフランシスコ講和条約を締結するにあたり、セットで安保条約の締結を迫った。日本にアメリカの軍事力の傘の下で生きる事を余儀なくさせ、永遠に自立への道を封じたのだ。

戦後、アメリカから押し付けられた憲法を後生大事に守り、不可侵の存在かの様に奉り、一度も改正せずに来た。これがどれだけ異常な事か、同じく占領下、戦勝国から憲法を押し付けられたドイツと比べれば分かる。ドイツは元々降伏にあたって新憲法は自分達で自主制定すると言う条件を連合国に呑ませていた。しかし、分割統治された時代、西ドイツが自主的に作った暫定憲法「ボン基本法」も何度も改正されている。諸外国では国民の意識、時代の変遷によって憲法を改正するのは常識で、どこの国も憲法改正を何度も経験している。半世紀以上を経て一度も憲法を改正していない先進国など日本を除いては無い。

憲法とセットで作られた「教育の憲法」、教育基本法も1947年に制定されて以来、今も手つかずである。教育基本法も無論、アメリカ製で愛国心や伝統と言った日本人にとって不可欠な要素の育成はあえてオミットしている。教育は国の基礎。その重要な教育の方針すらアメリカ任せにしてきた結果、日本人としてのアイデンティティーはすっかり消失してしまった。

さすがに政府も教育基本法の改正には取り組んでおり、中央教育審議会による改正の為の最終答申が遠山敦子文部科学相に手渡され、愛国心や公共心を盛り込んだ全面改正案が通常国会提出の運びとなっている。

憲法と教育基本法、この国の基軸を決める最重要の方針すら持たずに来た。戦後58年、羅針盤無き航海を続けてきたに等しい。



 国際法を無視の東京裁判



日本がこれほどまでに不甲斐無い国家、情けない国家になった元凶はマッカーサー元帥が画策した極東国際軍事裁判、通称東京裁判につきる。

日本に進駐したマッカーサー最高司令部はチャーター(極東国際軍事裁判条例)を発布し、1946年、日本解体の最大のハイライトとして東京裁判を開廷した。東条英機首相、土肥原賢二陸軍大将、広田弘毅外相ら28人がA級戦犯として起訴され、2年にわたる審理を経て死刑の判決を受け、日本は侵略国の汚名を着せられた。

戦勝国が敗戦国を裁く。これは人類史上、希に見る暴挙である。戦争は国際法上認められた行為で、国家間の利害が対立して起きる。お互い言い分は当然あり、どちらが正しくどちらが間違っていると言う質のものではないからだ。

敗戦国を裁いた同じ裁判では、ドイツに対して行われたニュルンベルク裁判があるが、東京裁判とは全く性格が違う。ニュルンベルク裁判では、ドイツの戦争を裁いたのでは無く、ナチス、ゲシュタポ(秘密警察)、ナチ親衛隊(SS)、保安隊(SD)などの犯罪団体が行ったユダヤ人大虐殺(ジェノサイド)のみを「人道に対する罪」で裁いた。

戦勝国の狙いは三つ。第一は復讐である。白人に唯一刃向かった有色人種、日本人への憎しみからである。第二は日本人の洗脳。日本に侵略国のレッテルを貼り、日本人に贖罪意識を植え付け、二度と立ち上がれないようにする為に。第三は白人種のアジア侵略の歴史の帳消し。アジアの白人支配に対する罪のなすりつけである。連合軍もアメリカもイギリスもオランダもフランスも、アジア地域を分割し、植民地化して搾り取れるだけ搾り取っていたと言う歴史がある。日本に侵略国の烙印を押し、何もかにもが日本が悪かったとすれば、かつての植民地の非難の目は日本に向けられ、自分達の悪行は覆い隠され、後々糾弾される事もないと踏んだのだ。

最初に結論ありきの東京裁判は、あらかじめ決められていた筋書き通り進められた。占領軍の多数派工作により公平な審理もなく結審した。

A級戦犯とされた人々が裁かれたのは「平和に対する罪」「人道に対する罪」。この罪状自体、インチキ極まりない。平和に対する罪、人道に対する罪は、戦後、ニュルンベルク裁判を開く際に決められたもので、事後法である。後で出来た法律を過去に遡って適用して裁く。これは「法の不遡及」と言う大原則に違反している。



 日本の恩人、インドのパール判事



しかし、天網恢恢疎にして漏らさず。このような欺瞞あふれる復讐裁判に真っ向から異を唱えた判事が居た。唯一の国際法学者、ラダ・ビノード・パール判事。高潔な精神の持ち主であった判事は、占領軍の圧力にも屈せず、「この裁判は文明国の法律に含まれる貴い諸原則を完全に無視した不法行為」と告発し、日本無罪論を展開。

判事の日本無罪論は多数派にかき消されて通らなかったが、おかげで後世にこの裁判が如何に不当なものであったか、伝えられた。パール判事は日本の恩人である。

東京裁判が結審した後も、判事は冤罪を着せられた日本の将来を案じ、3度来日している。その度に日本の教科書が東京裁判史観にそって「日本は侵略の暴挙を犯した」「先の戦争は侵略戦争」と教え、自虐的になっていく日本人を見て憂い、嘆いた。

「日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流されていくのを私は平然と見逃す訳にはいかない。誤った彼等の戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えなければならぬ」。



 明確に否定しなかった戦後の指導者の大罪



東京裁判はその後、国際法学者の間では完全に否定され、違法な裁判であったと言う見方が定着している。裁判に加わった多くの判事が帰国して、裁判の不当性、違法性を証言した。今、東京裁判の判決を信じているのは、断罪を受けた日本人ぐらいである。

何よりも重大な事実は、東京裁判を開廷させた当のマッカーサー元帥が、後に日本を侵略国だとして裁いたのは間違いだったと認めている。東京裁判結審2年後の1950年10月。ウエーク島でトルーマン大統領と会談したマッカーサーは、自ら「東京裁判は誤りだった」と述べた。更にその翌年5月3日、米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会において、聖書に誓った。

日本は安全保障の必要性により戦争を始めた。これはマッカーサーが大東亜戦争は自存自衛の為の戦争だと認めた事に他ならない。東京裁判の判決は間違いだと証言したのと同じである。当のマッカーサーが認めたのだから、侵略国のいわれは無い。このマッカーサー証言を国内外に公表し、無実の罪だと訴えれば、侵略国の汚名を拭い去る事が出来る。

ところが、日本政府は今まで1度たりともマッカーサー証言に触れていない。それどころか、自ら汚名払拭の機会を摘み取った形跡がある。

この証言が飛び出した翌年の1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立国に復帰する。講和条約締結の際、アメリカ側は2つの条件を課し、日本を縛った。ひとつは安全保障条約の同時締結、今ひとつは東京裁判の判決の堅守。講和条約の第11項には「日本国は極東軍事裁判所・・・裁判を受諾し」とある。この裁判を受諾し、と言う一文が問題だ。日本語で「裁判」と訳されている個所は、英語では「Judgment」。これは「判決」であり「裁判」では無い。だが、どういう訳か日本の官僚による訳文では「裁判」にすり替えられている。あたかも裁判全てを受け入れたかの様な表現になっているのだ。

マッカーサーの決定的証言を無視し、国民にも知らせず、大東亜戦争は侵略戦争だと認め続ける政府の罪は大きい。今も侵略国家の汚名により、日本は巨額の賠償金をむしり取られて続けている。大東亜戦争が侵略戦争でなければ、これは支払ういわれの無い金だ。国民の血税を何の根拠も無い贖罪につぎ込む。これは国民に対する裏切りであり、国家ぐるみの大掛かりな犯罪だ。今ではマッカーサー証言は多くの書物で紹介されているし、インターネットでも流れている。しかし、マスコミも取り上げようとしない。戦後の政治家、官僚、学者、ジャーナリストは全員有罪だ。



第2章 日本を骨抜きにした戦後の指導者たち

 

 歴史に逆行した戦後日本の国造り



日本人の心の支えであった天皇制や家族制度は戦後、軽視・破壊され、愛国心や憂国心は悪だと教え込まれた。日本が2000年かけて培って来た民族の魂や伝統は善ではなく、一転、悪だとされた。日本ならではの高い徳目は抹消され、代わりに西洋流の個人主義や物質文明が植え込まれた。

例えば、日本の良き伝統、家の思想。国の概念は日本では「ネーション」でも「ステート」でも無く、あくまでも「家」が基本の国家である。家族の集団が国、だから日本では国を「国家」と呼ぶ。

一方、西欧では国の最低単位は個人で、支配するかされるか。そこにあるのは排除と征服の思想。西欧では近代国家とは、個人と国の契約によって成り立つ人工国家である。日本の成り立ちはこれとは全く違う。家族の思想から自然に形成された自然発生国家で、家の象徴として万系一世の天皇家を仰ぐ様になった。

占領軍はこの日本独自の家の思想もぶち壊した。教育基本法でも、個人の尊重は謳われていても、家族がすっぽりと抜け落ちている。

占領軍は国際正義どこ吹く風で、日本人の魂の象徴でもある神社の焼き払いまで画策した。日本の戦争遂行のイデオロギーを支えた精神的支柱とは何か。マッカーサーはこの答えを神道に求めた。こう結論した背景には、キリスト教を始めとする西洋の一神教の特質がある。西洋の一神教は戦う宗教で、神道も同じだと勘違いしたのだ。そして、国家神道である靖国神社、明治神宮、伊勢神宮、熱田神宮の焼き払いを計画した。

靖国焼き払いの最後の決断を下すにあたって、マッカーサーは駐ローマ法王代表バチカン公使代理のブルーノ・ビッテル神父に意見を聞く。

「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家もその国家の為に死んだ人々に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば、以上の事は自然に理解出来る筈である。もし、靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は米国の歴史にとって不名誉極まる汚点となって残るだろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。靖国神社を焼却する事は、米国の占領政策と相容れない犯罪行為である。(中略)我々は信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰する者であろうと、国家の為に死んだ者は全て靖国神社にその霊を祀られるようにすることを、進言するものである」。

ビッテル神父の進言をGHQは受け入れ、首の皮一枚の所で靖国神社は救われた。しかし、マッカーサーが神道を衰退させ、日本人の大和魂を骨抜きにすると言う方針を諦めた訳ではない。「神道指令」を発布して日本政府に「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、及び弘布の廃止」を命じた。神道指令の精神は後に憲法の政教分離条項に引き継がれ、靖国神社への首相参拝問題、地方首相の招魂神社への玉串料違憲訴訟と言った国際社会では希に見る異常な紛争へとつながった。

日本精神の徹底的破壊はあらゆる分野に及び、システムも全て新しく造り替えられた。政治、教育、税制、法律・・・。若干修正されたものもあるが、憲法、教育基本法、累進課税方式の所得税法、6・3・3制の教育制度など現在の日本のシステムは当時作られたものを土台としている。

GHQと言う絶対権力の下で日本の解体は行われ、日本人はひたすらそれに従うしか無かった。その為、心ある先人が活路を求めたのは経済の再建だった。焦土となった日本を一刻も早く復興し、経済的立て直しを図った後に日本人の精神を取り戻そうと考えたのだ。こうして日本は未曾有の経済成長へと突き進んで行った。しかし、時の流れは苛酷であり、気が付けば日本人は経済の繁栄に浮かれ、かつての精神は粉々になって吹き飛んで行った。

価値観は180度変容し、戦勝国の目論見通り戦前とは全く異質な日本人が誕生してしまった。日本の古来からの伝統の価値観を縦軸価値観と表現している。時の流れを軸として何事も考える。親があり、祖先がいて、自分が生まれた。そして子がいて孫がいる。この世から我が肉体が消滅しても、永遠なる時の流れの中で子々孫々に我が魂は受け継がれ生き続ける。これが縦軸思想であり、日本人の良き伝統である。日本の神社、仏閣は縦軸思想の象徴である。

かたや戦後日本に巣くった西欧流の価値観は横軸価値観、横軸思想である。すなわち現代の価値観を大切にする考え方で、「今さえ良ければ」と言う現世利益主義、刹那主義。横軸価値観は私利私欲、拝金物質主義、身勝手、快楽主義をもたらす。人々はその時どきの欲望に支配され、自分の欲望を満たす為にはどんな事をしても良いのだと言う価値観に結びついて行く。

縦軸価値観では先人が築き継承して来た文化、伝統を大切にし、後世に伝えていこうとする。戦争に負けるまでは日本人は礼節を知る心、勤勉性、忍耐心と言った日本人の心と魂を重んじて来た。しかしこれからの美風は、戦後蔓延った欲望民主主義、無責任主義、問題先送り主義にすっかり吹き飛ばされてしまった。

横軸価値観がもたらした害毒の最たる見本が官僚制度の腐敗だ。私利私欲が最優先の横軸思想には、公など無い。公僕である官僚が今は国益そっちのけで既得権の確保にのみ奔走し、汚職を汚職とも感じず、国民の血税を自分の欲望の為に浪費している。アメリカにご機嫌を伺い、国益など眼中に無い金融経済官僚、中国や朝鮮半島に阿り、国家主権まで踏み躙る外務官僚などはその典型である。

戦後日本の大きな病巣のひとつは官僚支配であると言うのは識者の一致する見解である。官僚達は権力を一手に握り、国会をハイジャックし、我がもの顔で君臨してきた。挙句に彼等は規制と言う名の武器をちらつかせて産業界を自在に繰り、国益など眼中に無く私利私欲に走って来た。事実上、日本を牛耳っている官僚機構が腐敗の巣窟と化しているから日本は救われない。



 横田喜三郎、東大法学部長の犯罪



この腐敗した官僚制度の基を作った人物がいる。戦後の法曹界で力を持ち、東大法学部出身者が牛耳る官界、官僚政治に強い影響力を及ぼし続けた人物---東大法学部教授、横田喜三郎である。戦後、GHQが進駐して来ると、東大教授を始めとして立身出世、自己保身の為、占領政策に迎合する学者が少なからず出た。横田喜三郎もその一人だ。横田の戦勝国に阿るかの様な日和見主義が発揮され始めたのは、戦後間もなくである。

1947年7月、東大法学部国際法主任教授だった横田喜三郎は『戦争犯罪論』なる書を上梓して、東京裁判の正当性を訴え、日本有罪論を展開する。

1948年、世界人権宣言が国連で採択され、暮れに事後法の遡及適用が禁止される事になり、東京裁判は判決を急ぎ、缶詰状態で大詰めの作業が行われた。この時、パール判事の意見書の翻訳をしたのが横田教授だと言われている。しかし、占領が終わっても、横田教授の解釈は依然として変わり無かった。事後法での遡及適用が正しいかどうかでは無く、先例が作られたのだから平和に対する罪は戦争犯罪だと強引に言い放つ。

横田教授は東京裁判を全身全霊で擁護したばかりではなく、1948年までは自衛隊を完全否定し、昭和天皇の戦争責任を追及すると同時に、天皇制の廃止を盛り込んだ「人民主権主義論」を唱えていた。1945年10月に刊行したその著書『戦争の放棄』では、非武装論を展開、憲法9条第2項を完全軍備廃止と解釈すると共に、戦後の民主主義の理解を誤らせる基を作った。

民主主義が生まれた国は言うまでも無くイギリスだ。イギリスは君主制の国。簡単な矛盾にすら気づかず、君主制と民主主義は相反すると主張するのだから、横田教授の薄っぺら委迎合主義が透けて見える。

横田教授の論理に一貫していたのは戦前の日本だった。更正の為に武力を放棄し、天皇制度を廃止し、日本の過去、特に大東亜戦争では日本だけが全面的に悪かったと反省すべきだと論を進め、昭和10年以降終戦までの10年間だけでなく、開国以来の日本の近代史を全面的に否定している。

横田喜三郎は所謂社会主義系の知識人では無いが、強い革命指向に毒されていた。これは彼の育った時代と密接な関係がある。横田が生まれたのは1896年。明治を作った父親世代に対する反発が強い大正の進歩的ムードの中で青春時代を送った。その為、事の是非は横に置いても何かを否定したり、倒す「アンチ」にとらわれており、やみくもに新しいものに生き甲斐を感じると言う誤った考え方を持っていた。更に彼は軍国主義者に出世を阻まれたと言う個人的な経験があり、国を怨んでいた為に国家の否定に拍車がかかったと言われている。アイデンティティーの無い横軸派だ。しかも横田は、横軸派の例に漏れず、その場限りの現実主義、現世利益主義に貫かれていた。



 横田史観が流した害毒



日本の言論を担うべきジャーナリズムを含めて知識人が混乱、狼狽の極みにある時にこの様な人物が指導者層を輩出する日本の最高学府の教授であり、法曹界の権威であった所に日本の悲劇があった。日本の伝統を否定する歴史観で日本人を戦後、マインドコントロールし、贖罪意識を植え付け、現世利益、その場限りの現実主義を定着させた横田の罪は誠に大きい。現在に至るまでその呪縛は解けていない。中でも官僚に与えた有形無形の多大な影響は戦後、半世紀以上経過した今も色濃く残り、その間に日本はすっかり異常な国になってしまった。

現世利益をひたすらに追い求める変節の徒、横田喜三郎の教えを信奉した教え子達が東大法学部を卒業して官僚となり、国を動かす。贖罪意識で謝罪外交に終始し、金をばら撒く。現実主義でその場限りの対応に終始し、国家観とビジョンを持ち得ない。自己保身、既得権益最優先で、改革には手をつけようとしない。長いものには巻かれろとばかりにアメリカ追随に終始する・・・現在噴き出ている官僚制度に関する問題の根は、全て横田喜三郎の思想に遡る事が出来る。



 信奉した戦後官僚人脈の役割



アメリカと日本が戦争したのはたった4年だ。アメリカの占領はそれより長い7年近くになる。これほど長く占領を続けたのは占領が終わった後も、日本を支配下に置けるように用意周到にシステムを作り変える目的があったからだ。日本が未来永劫、白人に刃向かって来ないよう永続的な支配体制を確立する。これが占領軍に与えられた役割だ。憲法も教育基本法もこの目的にそって作られた訳だが、GHQが永続支配の為に最大限に活用しようと目論んだのが官僚制度だった。

アメリカは日本占領にあたって何が重要かを論議した結果、「天皇制の存続」「官僚機構の温存」「マスコミの飼い慣らし」の3つの柱を捉えた。官僚機構を残そうと考えたのは、自分達がコントロールし易いからである。実際、官僚はアメリカの意図通りに働いた。

8月15日を「終戦の日」と呼び、「敗戦の日」とは呼ばない。此処にも官僚の発想がある。敗戦なら敗戦の責任を取らなければならない人間が出て来る。場合によっては昭和天皇の責任問題も浮上しかねない。そうなると、アメリカの意図にも反する。ところが、終戦の日なら誰も責任を取らずに済む。2度の原爆投下や日本の151都市に行った無差別空襲と言う人類史上希に見る極悪非道な行為に対するアメリカの責任も問われない。日本が大東亜戦争を総括する事も無い。アメリカにとっても非常に好都合な表現なのだ。



 吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、宮沢喜一のアメリカ戦略への盲従



戦後の負の遺産はことごとく東大法学部人脈によってもたらされたと言っても過言では無い。

中でも横田喜三郎にもまして看過出来ないのは、戦後の宰相、吉田茂の罪だ。吉田首相は経済成長と引き替えに取り返しの付かない重要な日本の魂をアメリカに売り渡した。吉田の最大の罪は日本の独立国への道の封殺である。第1次吉田内閣が誕生したのは1946年5月。当時、丁度憲法改正の時期にあたっており、吉田内閣のもと百日審議が行われた。敗戦直後、日本人はまだ正気を保っており、マッカーサーの押し付け憲法の問題点を指摘する声は野党からも上がった。しかし、吉田首相はGHQの意向の代弁に終始し、耳を貸そうとしなかった。

第1次吉田内閣は1年で倒れる。再び吉田が首相の座に返り咲いたのは1948年10月で以後、第2次、第3次と吉田政権が続く。この間、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は主権を回復するが、吉田が結んだ講和条約は独立回復とは名ばかりで、日本の属国化を決定するものだった。日米安全保障条約とワンセットで締結されたからだ。国家の安全確保を他国に委ねると言う対米依存体制がこの時確立された。独立と言う体裁だけでは整えたものの、アメリカに防衛を依存した為に日本の真の独立は益々遠のいたのが真相である。

マッカーサー憲法改正の千載一遇の好機も逃した。吉田がもし一流の政治家なら、1952年4月28日に主権を取り戻した時点で国民にアメリカ製憲法の是非を問い、政治生命を賭して憲法改正に取り組んでいた筈だ。当時は野党もマスコミも憲法改正には否定的でなかったので、またとない改正の機会だったが、吉田は肝心な憲法改正は先送りしてアメリカのお先棒をかついだ。

官僚主導政治で悪しき官僚王国を築いたのも吉田である。初めから一般大衆など眼中に無く、政党政治と民衆を侮蔑していた。その吉田の考え方が対米追従一辺倒の政治へ、更には絶対権力であったGHQの力を借りての、民主政治の根幹である政党政治潰しにまでつながった。第2次吉田内閣の時、官僚政治確立に向けて動き始めた。まだ議員にもなっていなかった吉田の秘蔵っ子、47歳の佐藤栄作を官房長官に抜擢し、人材の育成に着手した。以後、池田勇人、大平正芳、宮沢喜一ら官僚政治家を次々と育て、吉田官僚体制を築き上げ、対米追随路線を定着させた。この間、官僚政治家と組んで政治を公然と動かす様になった。かくして対米隷属路線と官僚支配が強固になった。



 打倒官僚政治を合い言葉に、党人政治家を応援した良識派財界人



吉田首相の薫陶による官僚政治家の育成は「吉田学校」と呼ばれ、保守本流ともてはやされたが、断じて吉田首相の作った流れは保守の本流などではない。本来、本流と呼ばれるべきは、鳩山一郎、三木武吉、河野一郎、中曽根康弘さん等党人政治家と呼ばれる健全保守陣営だ。

官僚政治家の中にも対米追従一辺倒の吉田政治に異議、意見を唱えた政治家が居た。戦前、商工次官だった岸信介元総理である。岸さんは佐藤栄作の実兄だったが、吉田政治とは一線を画する「革新政治家」だった。

しかし、官僚出身の政治家には限界があった。古巣の官僚機構への遠慮がどうしても先立ち、決定的に斬り込むまでには至らない。

一方、党人政治家も、官僚体制を最大限に活用する吉田官僚政治の鉄壁の壁は中々破れず、次第に吉田政治に押された。

官僚支配体制・対米盲従の吉田政治に対して大きな危惧を抱いていた、心ある経済界の諸先輩が支援したのも、党人政治家だ。



 青年将校、中曽根康弘の反旗



当時、邂逅を得た党人政治家は皆さん立派な見識の持ち主で、現在の歴史観もへったくれもない政治家とは器が比べ物にならない。とりわけ、中曽根さんの国を想う愛国の情から発する政治への想いには心を打たれる。中曽根元総理は海軍将校出身で、当時は「青年将校」と期待が高まる鳩山派の政界のホープだった。

青年将校・中曽根康弘さんが占領下、居ても立ってもいられなくなり、したためたのがマッカーサー元帥への建白書だった。1950年の事だ。

占領時代のマッカーサーの権力は絶大で、彼の一言で不可能な事は無い程。彼の占領政策に口を挟んだだけでも政治生命どころか自由も拘束されかねない状況だったが、やむにやまれぬ気持ちから中曽根さんは建白書で直訴に及んだのだ。

?占領の長期化は占領者・被占領者双方を堕落させる

?日本再建の要諦は講和条約を通じて日本に完全なる独立と国際的に対等な地位を与える

?領土の帰属は人民投票で確定する

?日本の政治・防衛方法に関しては講和条約で制限せず、日本国民の自由意思に任せる

?国連加盟までは集団安全保障体制を確立し、日本の安全を保障する

?戦傷者・戦死者・遺族の待遇を改善する

?警察予備軍はアメリカの傭兵的予備隊と化している

?アメリカの航空会社が日本の航空権を独占し、日本の民間航空を排除している

?独立後の日本に航空機の製造・保有を禁止しない

?原子力の平和利用研究の禁止を解除する

すなわち、「占領を一刻も早く解き、自主自立国として日本の再出発を早期実現させよ」との要望を具体的に申し出た。中曽根さんの憂国の想いとその先見性には頭が下がる。

中曽根さんは吉田官僚政治にも反旗を翻している。当時、中曽根さんが強く求めたものに首相公選制がある。

若き日の中曽根元総理が初めて首相公選制に触れたのは1953年。1956年、憲法調査会が誕生すると、委員として活躍した中曽根さんは最終報告の中で首相公選制を提唱した。

首相公選制とは、国民の直接投票による大統領制に似た制度を導入し、大統領的首相を選出しようと言うシステム。国民の直接投票であれば、官僚出身者が首相をたらい回しにする事も無い。派閥間の思惑にとらわれて主義主張を曲げる事も無くなる。しかも、国民の直接の支持によって選ばれたのだから思い切った大鉈もふるえる。

つまり、首相公選制の導入によって吉田官僚政治を打破すると共に、占領軍政策で歪められた日本の国家を自主独立の正常な国家に戻そうと言うのが狙いだった。以来、中曽根さんは一貫して首相公選制の必要性を訴え続けている。

しかし、憲法改正の厚い壁、官僚政治家の抵抗に阻まれて未だにそれは実現していない。



 共産党、社会党、総評、日教組の暗躍



日本人から国家観が消え、祖国を嫌悪する若者が次々と輩出されるようになったのは、アメリカの占領政策だけが原因では無い。アメリカはソ連の共産主義も最大限に活用して、日本を骨抜きにした。左翼勢力と合体して徹底したマインドコントロールが行われた結果である。

ロシア革命の直後、レーニンは「ソビエト」を守る為にコミンテルンを組織し、全世界に支部を置いた。日本共産党はその極東委員会日本支部として誕生した。レーニンは「帝国主義戦争を内乱へ」と言うスローガンを掲げた。戦時にあっては後方を撹乱し、民族国家、主権国家を敗北に導く。これがソ連の革命戦略だった。

コミンテルンの32テーゼ、及び36テーゼで日本の左翼分子に与えられた役割は天皇制打倒、日本の転覆だった。戦前、戦中の共産党弾圧もこの文脈にあり、日本と言う国家の転覆を企む勢力として政府は取り締まった。

戦後、GHQの後押しで革新勢力は息を吹き返すと、社会主義者達は社会主義革命の実現とソ連擁護を目指して政府を弱体化させる為の活動を展開した。共産党、社会党(現社民党の前身)が唱える軍備・警察力の否定、集団安全保障体制の否定などは全てこの路線の上にある。

戦後、国家を弱めたいとする左翼勢力が特に熱心に取り組んだのが、教育の偏向だ。この一大事業はGHQとコミンテルンの絶妙なコンビネーションで行われた。東久邇宮内閣は「新日本建設の教育方針」を出し、日本人としての精神を更に磨く為の教育改革を提示する。

しかし占領軍はこれを認めず、日本側の望んでいた国体護持からは程遠い教育改革を性急に実施した。軍国主義、国家主義を教育から徹底的に排除すると言う名目のもと、教育内容、教育関係者をチェック、教科書や教材に関しては調査と取り締まりを行う、教員の自由な政治活動を保障する、教員の組合には助成する、と言った抜本的な改革だ。

この方針にそって、GHQの意にそわない人間の教職追放指令が出され、更に神道に関わる教育、行事などを全面的に禁止する指令、修身、日本史、地理の三教科の授業を停止する指令と立て続けに発布された。教育勅語も廃止され、敗戦までの日本の教育は完全に解体され、日本人は改造されたのだ。

この教育改革に便乗して教育界を掌握したのが左翼勢力だ。GHQの教員活動の自由の保障、教員組合の助成と言う方針に乗っ取り、1945年12月には全日本教員組合と日本教育者組合が結成された。その後紆余曲折を経て1947年に誕生したのが日本教職員組合(日教組)だ。

この頃米ソの冷戦状態が幕を切り、GHQは極端な民主改革路線を転換させ、共産党議員の追放(レッドパージ)を行い、警察予備隊を創設した。革新勢力への逆風が高まる中、左翼集団であった日教組は政治的に益々社会党、共産党支持を強める。陰で操っていたのはソ連のコミンテルン、そして中国共産党である。

教育現場はかくして日教組と言う名の左翼集団に牛耳られる様になり、愛国心を育てない教育、反日教育が公然と行われる様になった。

それでも文部官僚がしっかりとコントロールすれば現在の様な事態は起きなかったのだが、彼等がまた日和見主義で、利権を確保する為に日教組と裏で手を組んだ。教育界は許認可でがんじがらめ。日本の子弟の教育は日教組の思うままになってしまった。

一方で左翼勢力が根城にしたのが労働組合。終戦の2ヶ月後にはGHQによって治安維持法が廃止され、拘禁されていた共産党員が刑務所から釈放された。コミンテルンのテーゼに従い、彼等は「天皇制打倒、階級闘争」をスローガンに掲げ、運動を開始する。また労働組合法の発布によって労働運動が解禁され、GHQの奨励のもと、労働組合の結成が活発化し、左翼勢力は一層勢いづいた。労働組合によって、戦前、戦中の支配層は徹底的に糾弾され、何もかもが悪いとレッテルを貼られ、同時に敗戦までの歴史は全て断罪された。

共産党、社会党、日教組、総評が一体となって、日本と言う国家の崩壊を画策したのだ。



 朝日新聞、共同通信、NHKなどに巣くう左翼知識人



戦後、敗戦病の病原菌はGHQによってばら撒かれたが、それを育てたのは自虐史観を意図的に流し続ける朝日新聞、毎日新聞、共同通信、NHKなどの反日マスコミ連合軍だ。

GHQが日本解体の柱として据えた一本が「マスコミの飼い慣らし」である。GHQの情報操作、言論統制は占領統治が始まると同時に実施された。1945年9月、占領軍は「プレスコード」を発表する。「プレスコード」は「新聞規約」と訳されているが、連合国占領軍に対し、マイナスになる様な批判を加えたり、占領軍に対して不信もしくは怨恨を感じさせる様な事項を掲載、あるいは放送してはならないと言うお達しである。徹底した情報の統制が目的だった。

更に10月になると一切の報道内容に関して事前検閲を行う事を決定、検閲要項の細則を各新聞社や出版社に通達し、検閲体制を整えた。これによって、反米的な情報、とりわけ東京裁判と原爆投下に関する批判は厳しく禁じられる。

こうしてマスコミの自由を縛ってGHQのマスコミ飼い慣らしが始まった。日本のジャーナリズムはあっけなくこれに屈したどころか、寧ろ手先となって国民の洗脳に手を貸した。

日本が独立を果たし、占領軍が撤退しても、マスコミは自虐史観の流布・育成に熱心に取り組む。侵略や虐殺に関する情報はろくろく事実関係を調べもせず、針小棒大に大々的に報道し、逆にそれを打ち消す証拠は一切無視を決め込んで。此処でも左翼勢力が暗躍する。

彼等の常套手段はでっち上げだ。進歩的知識人と称する左翼言論人が、ありもせぬ南京大虐殺や従軍慰安婦の強制連行をさもあったかの様に仕立て上げ、大衆に贖罪意識を植え付けようと画策している。自分がやったとの嘘の証言や中国の言い分に従って誠しなやかに著述する者までいる。

それに応じるのが、朝日新聞や毎日新聞、共同通信、NHKなどに巣くう左翼ジャーナリストだ。彼等が真偽などおかまいなしに倍加して垂れ流す。マスコミの報道はつい信じてしまうものだ。大衆は意図的な左翼知識人の喧伝に流され、すっかり洗脳され客観的に歴史を振り返る目を失ってしまった。



 アジアに築かれた反日ネットワーク



反日マスコミ連合のでたらめぶりは、日本が贖罪国家に転落するきっかけを作った教科書誤報事件の際の対応ひとつ見ても明らかだ。誤報であったとはっきり謝罪・訂正したのは産経新聞一紙のみで、NHKを含む他のマスコミは未だに訂正していない。

それどころか、これに味を占めて教科書騒動を次々と演出、自虐史観を払拭しようと真実を語る要人は片っ端から引き摺り下ろした。

教科書騒動や大臣の辞任劇でも必ず見られる様に、中国を始めとする反日勢力との連携によって事を進めるのも、左翼マスコミ定型パターンだ。国内で要人の問題発言や意に添わない教科書の歴史記述があると、大々的に報道すると同時に中国や韓国にご注進に及ぶ。知らせを受けた中韓両国は戦略として抗議し、謝罪を求める。それをまた反日左翼マスコミが取り上げ、事をどんどん大きくしていく。

そればかりか、反日マスコミ連合は朝日や毎日はアジアの主要都市に反日思想者のエージェントを置き、国内で事件が起きると、現地に伝え否定的な反応を集め、これがアジアの声、アジアの世論だと言わんばかりに報道する。こうした反日キャンペーンネットワークでは、反日華僑が大きな役割を果たしていると言われている。反日マスコミ連合を中心に、日本を貶める為の謀略機関がアジア諸国に張り巡らされている。

その結果、歴史は捻じ曲げられ、ありもしない日本軍の虐殺や悪事がいつの間にか事実として定着してしまう。

何故卑劣な手段を使って祖国を貶める様な真似をするのかと、左翼マスコミに抗議した所で反省など無い。左翼マスコミの目的はコミンテルンのテーゼに基づく日本の亡国なのだから。社会主義が瓦解し、革命の展望が消滅した今も、左翼の国家弱体と言う大命題はトラウマとなり、社会病理現象として依存している。



 産経新聞への支援と松下政経塾の創設



思想としての共産主義、社会主義に若い人達だけで無く知識人も雪崩を打って流れていった時代、それが占領時代から昭和30年代にかけてだった。当時、急激に進んで行く左翼支配に、永野さんを初めとする心ある財界人は心を痛めていた。永野さん、今里さん、鹿内さん、五島さん等が支援していた中曽根さんは当時の心境をこう語った。

「(共産主義に対抗する為には)ひとつは民主主義理論ですね。要するに自由な発言、自由な結社、自由な行動と多数決原理ですよ。そういう方法に対する信頼感が国民生活の基礎になければならないと思っていました。それから、民族の伝統とか心情と言うものが尊重されないと国家は成り立たないと思いました。やはり傷ついた者を労わり、悲しめる者を慰める、そういう同胞愛に満ちた国家を作ると言う事をずいぶん強調しましたね」。

良識派の財界人達の想いも同じだ。願いは日本の伝統と文化を尊重する、民主的な真の独立国の建設だった。

しかし、現実には左翼勢力は拡大の一途で、教育界は彼等の手中に落ち、マスコミも左翼勢力に汚染されつつあった。手をこまねいて見ていると、早晩、健全な主張、意見は封殺される様になりかねない。この事態を憂慮した戦後経済人達が昭和30年代末期、「オーソドックスな良識派のジャーナリズムを残そう」と支援・再建へと動き、鹿内信隆さんに経営を委ねたのが産経新聞だった。鹿内さんは産経新聞を良識ジャーナリズムとして育てる一方で、『正論』を創刊。オピニオン雑誌が人口に膾炙される契機を作った。

大企業を率いる一線級の経営者でさえ、多くが目先の利益、損得、物欲、金の亡者になり下がっているのが現代の横軸社会だ。しかし、戦後の経済人は自社の繁栄は勿論の事、みな広く日本を憂い、将来どのような日本を築くべきか、理想の国家作りに企業人としてどんな貢献が出来るのかを考え続けていた。常に国家が念頭から離れなかったものだ。

松下電器産業の創業者、松下幸之助さんもその一人で、松下さんは日本の歴史と伝統、日本人の精神を守る為にPHP総合研究所を設立し、1979年には私財70億円を投じて松下政経塾を開校した。松下政経塾は全国から志に燃える前途有為な若者を募り、3年間自由に学ばせ、本物のリーダーを作るべく開かれたユニークな私塾である。この21年間で政界を中心として、実業界、マスコミなど各方面に約200人の人材を輩出している。

ただ左翼勢力の牙城を崩すまでには至ってない。マスコミ界を眺めても、朝日新聞約800万部、共同通信社の配信に頼る地方紙は3000万部を超えている。これに毎日新聞約390万部を合わせると、実に反日陣営の勢力は約4200万部にも及ぶ。かたや産経新聞は反日マスコミ、左翼知識人の「タカ派ジャーナリスト」との総攻撃もあって、部数では下位に甘んじて、世論は不健全な反日マスコミによって誘導されている。

産経新聞と他のマスコミとの違いは、北朝鮮による日本人拉致事件の報道を見れば歴然としている。22年前、北の日本人拉致疑惑をいち早く報じたのは産経新聞だった。産経新聞はその後も終始一貫して「拉致の疑惑あり。政府は一刻も早く対応せよ」と主張を重ねて来た。その間、他のマスコミは無視同然で、横田めぐみさんの拉致が明らかになった時点でも、はっきりした証拠が無いと見過ごした。政府の拉致に対する消極的な態度を招いた責任の一端は無責任報道を続ける主要マスコミにある。

良識派の最後の砦、産経新聞は何があっても守り通さなければならない。

よく日本の危機を救う為に何か行動を起こしたいと言う相談を受けるが、何も特別な行動をする必要は無い。まず不健全マスコミを排除する。産経新聞を購読しなくとも、少なくとも朝日新聞や共同通信から配信を受ける地方紙は読まない。これだけでも立派な世直しである。



 戦後日本と相似するカルタゴの滅亡



諸先輩の奮闘も虚しく、日本は自主独立、独立国家としての気概の無いクラゲ国家に成り果ててしまった。真の郷土愛、親子愛、公共心が不在の国家に転落し、日本人は誇りと愛国心を失っている。国益はなおざりにされ、歴史上かつてなかった恐るべき異常な国家になった。

1990年代の経済没落は「失われた10年」と表現されている。しかし、日本が失った時はたった10年などではなく、戦後58年と言う膨大な歳月だ。「失われた半世紀」だ。

全ての過ちは過去の歴史の中に宿っている---。

この間、戦後日本を追認し続けて来たが、もう曖昧なまま、戦後体制を引きずっていく訳にはいかない。戦後文明を清算し、失われた半世紀を取り戻さなければならない。戦後から今まで、日本人が築いた異端の文明は間違いであったと総括し、本来の日本として再スタートしなければ、この日本、日本民族は早晩地球上から消えてしまう。

過去の歴史の中で同じような例がある。パール判事と篤い親交を結び、終始一貫して大東亜戦争日本無罪論を訴えてきた田中正明さんが「現代日本の自虐・退廃は”カルタゴの滅亡”に似ている」と指摘している。今から約2000年前、カルタゴと言う古代都市国家がヨーロッパに存在した。英雄ハンニバルを生んだカルタゴの民は元々聡明で勤勉、武勇にも優れていたが、ローマにあっけなく滅ぼされてしまった。カルタゴは第2次ポエニ戦争でローマと戦い大敗。降伏の条件として次の7項目ローマから突きつけられる。

 1.完全武装解除。商船を除き、全船隊をローマに引き渡す。

 2.本国以外の全ての領土を放棄する。

 3.カルタゴの安全はローマが保障する。

 4.但し、カルタゴに駐留するローマ軍の給与・食糧などの費用はカルタゴが支出する。

 5.脱走兵・捕虜などをローマに引き渡す。

 6.賠償金、1万タレントをローマに支弁する。

 7.14歳以上の男子100人を人質としてローマに送る。

6や7の項目こそ無いが、戦後のアメリカの占領政策そのものだと言う事に気付く。

カルタゴはこの時降伏条件を受け入れてどうなったか。軍備と交戦権を失ったカルタゴは、もっぱら貿易と金儲けに走り、地中海のみならずアフリカの海岸まで勢力を伸ばし、世界一の貿易立国となった。

しかし、肝心な独立国の気概、自尊自立の精神を失い、何でも金で済ます風潮が根付いてしまった。経済の繁栄に酔いしれ、傲慢になったカルタゴをローマが再び襲い、シーレーンを押さえ、港湾を封鎖した(第2次ポエニ戦争)。祖国防衛の意志すら消えたカルタゴはあっけなくローマに敗れ、この地上から姿を消し、再び蘇生する事は無かった。

まるで戦後の日本を想起させるカルタゴの滅亡。日本民族もカルタゴの民と同じく、このまま亡国の民となってしまうのか。今こそ新たな建国の気概が必要だ。明治維新にもまして。建国はその国の正史の上に立って行わなければならない。歴史を正しく見直し、正常な歴史観を取り戻す。日本人は半世紀の眠りから覚めなければならない。そして過てる戦後文明を否定し、新たな日本を建国すべき時が来ている。





・・・まだまだ途中ですが長過ぎて書けん(笑)。コラそこ!!寝ずに読みなさい(笑)!!
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